開拓地時代 1945(S20)年2月:27歳~1953(S28)年11月:36歳
《決意・開拓生活へ》
山田 三郎 (「コンミューンの夢」より)
履歴を調べると,愛知県宝飯郡へ入植したのは1945年であるが,8月15日以前,3月頃であるらしい。
入植する数ヶ月前に教職を辞して,八事近くの元校長の家で,農業の「イロハ」を学んでいる。
それと共に,開拓地を捜して東海地方の各地を土壌調査のために歩いている。
親たちは,きっと思ったに違いない。
「鉱一は何を考えているのか。あれも,もう28才になるというのに-」と。
都市の商家の出身で,学校は愛商,絵を描くことが好きで,教員になりたいと言いだし,その舌の根もかわかぬうちに開拓をすると言いだだす。
その間に,どんな思考の連続性があるのか。
周囲の者が困惑するのは当然であろう。
私は,昨年の8月展の追悼文の中で,「開拓生活に入る際,宮沢賢治の強い影響があったと思われる」と書いた。
その根拠は,妹・富美子さんから坂野さんが宗教に強い関心があって,主に仏教書を読んでいたと知らされていたこと,
富美子さんが夫と別れて,一人息子の耿彦さんと天理教団に入って生活しながら,その組織の裏面に失望してそこから出て生きようとした時,
坂野さんが妹を励ますために送った詩が賢治の「雨にもマケズ」であったこと,
そして坂野さんが教職で生きられないと判断したとき開拓農民になるという発想が全く「賢治的」だと思ったからである。
そういえば坂野さんと富美子さんとの兄妹愛は賢治と妹とし子との間を想い出させるものがある。
そう考えて,改めて宮沢賢治の著述を読み直してみると,賢治の「農民文学概概論」の中にこんな部分がある。
「何故,われらの芸術がいま起こらねばならないか」
曽ってわれらの師父たちは乏しいながら可成楽く生きていた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらには,ただ労働が,生存があるばかりである
宗教は疲れて,近代科学に置換され,然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若しくは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく又さるものを必要とせぬ
いまわれらは新たに正しき道を行き,われらの美を創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれらの不断の深く楽しい創造がある
都人よ,来ってわれらに交れ
世界よ他意なきわれらを容れよ
ここには,坂野さんがその時抱えていた矛盾を乗越えるヒントがあるように思える。
家業を手伝えば「ただ労働がある」小金を貯えるだけの虚しい労働がある。
心をふるい立たせる芸術に走れば,たちまち衣食の手だてを失う。
いつも変らぬ二律背反がある。
抜け道はないのか。
「新たな,正しき道」はどこにあるのか。
芸術をもて あの灰色の労働を燃せ
芸術をもて あの灰色の労働を燃せ
芸術をもて ………………
《開拓生活》
木を伐り,それを柱とし,野山のカヤを刈り,それを屋根とする。
赤土を運び,ワラと水を加えれば壁となり,いろりにも,めしを炊くかまどにもなる。
木の根は掘起し,枯らした後焚木とし,岩は耕地を仕切る土手の礎となる。
窓は……かつてキャンバスを張った画枠である。
坂野さんと同じ時期に入植したのは他に四家族あった。
間もなく坂野さん自身も結婚した。
昭和22年のことである。仲人に伝えた坂野さんの希望は「健康で丈夫な人を-」であった。
奥さんは坂野さんの話を聞いて,とんでもない山師ではなかろうかと疑ったという。
坂野さんからの手紙は「強いてとは言わない。
一度見に来て出来るかどうか確かめてほしい」という事であったようだ。
陸稲,サツマイモ,ソバ,アワといった穀物。
柿,梨,桃,さらに蜜柑まで植えた。豚,羊,鶏も飼った。
結婚した翌年 長女 由樹子
翌年 長男 心一朗
2年後に 二男 田香至
さらに2年後に 次女 四方子
6年の間に4人の子供が生まれる。
坂野さんは一人の農民であると共に,農業研究者でもあった。
土壌の研究,改良。実験的な作物栽培も試みている。
豊川あたりの農業改良普及所(?)の「推進農場」として研究を続けていたという。
入植して8年目,父鉄市氏が亡くなった。
鉄市氏は長男の困難な生活を陰で財政的に支えていた人であった。
幼い4人の子供を抱えた開拓農民の生活は,突発的な支出でもあると破綻の危機にさらされていたのだろう。
妹・富美子さんの言葉によれば,父・鉄市氏の死が開拓生活をやめる契機となった。
当時の社会の状況は,日本が一応戦後経済を脱して,一路重化学工業化へ向けて走り始めた頃である。
それは人口の都市集中と農村の過疎が表裏となった社会問題として世の関心を引き始めた頃でもある。
坂野さんはすでに36才。開拓生活8年にして,ある種の意識の変化が起っていた。
『俺は若い頃,絵を描きたかった。道楽といわれようと人の道にはずれると言われようと,ただがむしゃらに描きたかった。
一方でそういう我利我利亡者のような自分が恥しかった。
闇の中で,方針もなく動きまわり,ある日,俺という人間は,初めから造り直さなければ駄目だと思った。
そして開拓生活に飛込み,8年の歳月が過ぎた。
あれほど若い俺を苦しめていた言葉,
≪お前のやっている事は遊びだ,道楽だ,くその役にも立たん。皆んなが額に汗して働いているというのに-≫
胸につきささる母親の言葉,世間の言葉,そして自分自身の内心の言葉。
それらは今,やっと消えた。
それを仏陀の言葉に求めるなら……
仏陀が春の種播の準備で忙しいある農家の庭先で托鉢をしたときのこと。
家主が出て来て詰問して言った。
「わたしどもは自分で種をまき,自分で取入れて食う。
あなたも自分で種をまき,自分で収穫したらどうか」と。仏陀は答えて
「私もまた耕して種をまく,耕して種をまき食を得るのである」と。主人は意外に思って
「わたしどもは,あなたの牛を見たことも,犂を見たこともない。どうしてそんなことが言えるのか」と。仏陀は答えて
「荒地を耕して美田とするのが農夫の仕事ならば,人間精神の荒野を拓いて人間のあり方を示すのも人間の仕事である」』
1年の収積が終り,冬を迎えようとするある日,3度目の転身が行なわれた。
引用書:グループ8月機関紙No.14「坂野耿一特集」1977年6月発行
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