家業か絵か 1935(S10)年4月:17歳~1945(S20)年1月:27歳

《京都から名古屋へ》

山田 三郎 (「コンミューンの夢」より)

愛商卒業と同時に,京都のK商店へ見習いに出されることになる。 この間,独立美術の研究所へ通っている。 見習期間の住込みという条件の中で絵の勉強がどのように続けられたか不明である。 この時期に,山田光春氏の言葉を借りると「愛の芸術」を説く瑛九との接触が生まれたことに注目したいと思う。


3年の見習期間が過ぎる。家へ帰って乾物屋の長男としての生活が待っていたが,失踪してしまう。 そして京大の美学の聴講生になったりしているが,結局,1年後には名古屋の家に帰り,店の手伝いをしをがら絵を描くことになる。


デッサン:顔001

名古屋へ帰った年,第3回自由美術展へ出品し奨励賞を得ている(山田光春氏「坂野君を想う」)。 それがどんな作品であるか遺作の中に見当らない。 しかし山田光春氏のいう「ミレーのような長島方面の農村や働く農婦を描いた」パステル,油彩は数点見つかっている。 子守をする少女や洗濯をする農婦,背景は水路や水田が広々と続き草葺屋根の農家が散在する農村である。


ご存知のようにミレーは19世紀の宮廷美術からはるかに遠く,大地に根をはって生きる農民を描いた画家である。 19世紀後半のフランスの政治情勢とは無縁であって,クールベのように当時の政治とまともに切り結ぶことはない。

ミレーは当時の革命の側からは保守的で反動と変らないと見られ,権力の側からは社会主義者と見られながら,自身は宗教的な雰囲気の中で生きることに玩固なまでに徹した画家であった。

ミレーはあくまでも農民大衆との接点にいてその生活を描いたがクールベの絵はむしろサロン的である。 革命に参加したが,急進的なブルジョアであった。


ただここで確かめておきたいのは,坂野さんの20代前半の時期にミレーに似た傾向の作品があるという事実である。 名古屋へ帰ってからの3年間の生活には,山田光春,長谷川三郎,瑛九やその姉妹との交流があったことが山田氏の追悼文にある。

その間,教師になりたいと言いだし,山田氏の紹介で市立第三高等小学校の教職につく。 山田氏はなぜ坂野さんが突然そんを事を言いだしたか書いていないが,家の仕事をしながらでは絵が描けないからであろう。


商家の生活というものは,極端を言い方をすれば,朝起きてから寝るまでが仕事であって,絵を描く時間などないためではなかろうか。 家業をとるか絵をとるか-。 当然,坂野さんの気持としては絵をとるであろう。

しかし母親は厳しい人であったらしいから「それならば,家を出をさい」位のこと言われているのではないか。 家を出る,しかしどうしてその日の糧を得るか。 その解決方法が「教職」であったのではないか。

私の推測であるが,そこには,少くとも時間の区切りが,絵を描くための余暇があると思えたのではかいのか。 子供を教えることも,その後の坂野さんを見ると嫌いではなかったとしても-。


しかし,現実の教員という仕事は理想家肌の青年画家を満足させるものではをかった。 妹・富美子さんの言葉を借りれば「雑用が多くて,絵を描く時間もまゝならない。 気特を乱されることばかり」であった。

経験を積んだ教師ならともかく,新任の助教師が,時間内にすべての事務をかたづけて自分の世界へ精神を統一させて没入できないのは当然である。 教職にあったのも3年に満たなかった。

引用書:グループ8月機関紙No.14「坂野耿一特集」1977年6月発行
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