猪子石時代 1972(S47)年5月:54歳~1976(S51)年1月:58歳

坂野 心一朗
デッサン:署名(カンパ)

当地改築のため、犬山の借家を出る。市営住宅の入居が決まり「猪子石(いのこし)団地」に転居する。 入居当初は長女が同居していたが結婚し籍を離れた(1973年・昭和48年2月)。他の3人の子供たちはそれぞれの就職先で生活していたため、以降は夫婦2人で暮らした。 ここで確保できたのはたった4畳半のアトリエだ。大作に取り組むだけのスペースはない。だが、 小さいながらも粒ぞろいの逸品がここから次々と生み出されていくことになる。


大きくても20号程度である。画布はますます小さくなっていく。それに比例するかのように「描くもの」と「描かれるもの」との(心の)距離が縮まっている。 その中に描かれている「もの」に限りない安らぎを感じるのは私だけなのだろうか。 そこには生きているすべての「もの」へのやさしいまなざしがあふれている。


アスファルトの道路にしゃがみ込み母親か父親の帰りを待ちながら落書きをしている男の子供がいる。 女の子が団地の階段の踊り場で(やはり誰かを待っているのだろう)無心に縄跳びをしている。 靴跡の残された道路に捨てられてもなお健気(けなげ)な視線を向けるお人形(この人形は長女が幼少の頃いつもおんぶしていて離さなかったものであまり振り回すので頭が外れてしまったのを覚えている)。


絵筆を握るかたわら団地の子供会や自治会活動にも献身的に尽くしている。ここに一枚の写真がある。 団地恒例のお正月の行事なのだろう法被(はっぴ)を着てもちつきのお餅を返しているところだが、その表情は子供のように無邪気だ。 ここに一本のカセットテープがある。そこには何かの集まりで話している耿一の声が吹き込まれている。たまたまお隣の奥さんが録音されていたもので、生前の声を残す唯一の遺品となっている。


デッサン:髪をとく

「世間に何と言われようが俺はこの道を進む。人間の心を耕して人間のあり方を示す、そういう人間を自分の中に創り出すのだ」(前述)。 貧乏のドン底に遭おうが世間から冷たい視線を浴びせられようがひたすらこの精神を貫き通した。


開拓地に入植して以来4度も転居を余儀無くされている。が、置かれた環境を否定するのではなく受け容れ、主体的に働きかけ、人間のあり方を示そうとした。 頑(かたくな)なまでに耿一を苛(さいな)み続けた自己への罵倒に対してすら素直に受け容れられるようになっていた。それは自己への矛盾の止揚を意味するのではなかろうか。  《人間の心を耕して人間のあり方を示す》 耿一の作品はますますその佳境に近づきつつあった。 もはや恐れるものはない。俺はこの道に徹しこの道を生きていく。


これからという時に突然、病魔が襲いかかった。

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