道半ばにして
《正月三日から通夜のこと》
山田 三郎 (「コンミューンの夢」より)
昨年,正月三日,昼すぎ,坂野さんの奥さんから電話があった。
新年のあいさつを交した後で「……主人が倒れてしまって,明日から個展なのですが,出品する絵を出して頂けないか」といわれる。
受話器を置いたその足で行ってみると,ご本人は,こたつの横に敷いたふとんに横になっている。
入って来た私を見て,起き上がろうとするのを,そのままにとどめて「どうしたんですか」と尋ねると「テレビで除夜の鐘を聞きをがら,ブドウ酒にウイスキーを入れて飲んでいた。
さあ寝ようとトイレに立って,そこで倒れた」ということである。
「どうも首すじをやられたらしい。
それと頭がいたくてなあハハハ……」と声はいたって元気である。
「医者にみせたんですか」と聞けば「知合いの医者にみてもらった。
今は正月で病院は医者も看護婦も不足だ。
四日になったら名大病院で検査をしてくれるそうだ」という。
正月だからねーとうなずきあって「病名は」と聞けば,「(医者は)くも膜下出血とか言っていた」私はぎょっとなった。
横になっているといっても,患者はふとんの中で寝返りを打ったり,横向きになって頬づえをついたりしているのだから。
「安静にしていないと駄目ですよ」と言えば「うんうん」とうをずきはしても,仲々じっとしていられない様子である。
私は隣室の仕事部屋から絵を取出して,坂野さんの前へ持って来て,OKがあれば部屋の隅に立てかけるというふうにして,20点位の作品を取出した。
翌朝,娘さんのご主人が運んでくれる筈である。
私はホルペイン画廊へ空身で出掛けて展示すればよい。
医者には診てもらった。
看護婦の娘さんが同居している。
本人の顔色はいいし元気だ。
今は正月も三ケ日。
病院の体制が整っていないならやむを得んではないか。
私としては,くも膜下出血という病名は大いに気がかりなところだが,そのまま家へ帰った。
四日朝,9時半,ホルペイン画廊へ行き,田香至君と飾付け,案内板の掲示,サイン帖の準備などをして帰った。
精密検査の結果はまだわからをい。
5日,仕事初めの日,職場へ富田さんから電話があり,「坂野さんがあぶをい」という。
それから1週間,脳死状態が続いた後,坂野さんは逝った。
1月13日,猪子石荘の集会室で坂野さんの通夜が行なわれた。
親戚,近所の人,画家や党の活動家たちが知らせを聞いてかけつけた。
その人たちも夜の10時を過ぎると,三々五々帰っていき,祭壇の前が急にひっそりとした。
一日の疲れが出て,照明の蛍光灯がチカチカと眼を刺す。
残っているのは,故人の奥さん,妹の富美子さんとその一人息子耿彦さん,二女の四方子さん,絵描きの梅村,高本の両君それに私である。
梅村がデスマスクをとるんだと言いだし,私,高本の順で故人の顔をスケッチした。
いい仕事をしても,世間はあなたを評価することを知らなかった。
一般論としては,どこにでもあり得ることなのに,こうした場面に出逢ってみるとやはり口惜しい。
あなたは自分からそれを求めることはしなかった人だったけれど,まだ10年は生きて続けて描いてほしかった。
デスマスクを描きをがら,あなたはほんとに死んだんでしょうね,と額にちょっと触ってみたりする。
悲しいとか何とかいった気持がいっこうに湧かず,坂野さんは,もしかしたらちょっとふざけて,死んだまねをしているだけで,
急に,がばっと起上って「ワハハ,じょうだんじょうだん」と言いをがら立上りそうな気持がしてくる。
しかし,眼窩に沈んだ眼球は動くことはないし,皮膚はロウのように変色し血液が流れることはもう決してない。
デスマスクを描いた後,私はその集会室の出入口付近に置かれた電気こたつに入って,故人の奥さんと妹・富美子さんという坂野耿一を語る上に最も重要な人物から,
夜明けまで故人の一生について聞くことが出来た。
もし私の住まいが遠くにあって「明日の葬儀にも参列しなければ……」と思って帰っていたとしたら,そして二人の話を開かずにいたら,一日一日と日がたつうちに気持がだんだん離れていって,
二,三年もするとはるか遠くの人になっているかもしれなかった。
二人の話,特に妹・富美子さんの語る所は人間の生命の重さを改めて私の心に刻みつけることになった。
引用書:グループ8月機関紙No.14「坂野耿一特集」1977年6月発行
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