幼少期 1935(S10)年3月:17歳以前

《小児マヒのこと》

山田 三郎 (「コンミューンの夢」より)

坂野さんは幼い頃,小児マヒにかかった。坂野家にとって初めての男の子,商家の跡継ぎということから祖母にあたる人が「資産を傾けても」病気を治すのだと言って,幼い子を背負い各地の医者をたずねて歩いたという。 脳性マヒでなかったことは不幸中の幸いであったかもしれかいが,結局,片足にマヒが残った。


デッサン:子供004

私の知っている坂野さんは確かにわずかだがピッコをひいていたが,それほど不自由さを感じさせない程のものであった。 私は富美子さんに愚かな質問と思いつつ,敢えて聞いてみた。 「坂野さんは自分の足のことを気にしてみえましたか」と。 富美子さんは,あゝそのことですか,というように態度で「そんなことはないと思いますよ。 兄はしんぼう強い人でした。水泳も他の子と同じようにやりましたし,柔道をやっている時も,泣事一つ言いませんでした。 柔道をやっている時のことと思いますが,寒中に裸足でランニングを続けていましたが,これっぽっちも(と小指の先を示しながら)愚痴をこぼさをい人でした。 と,こだわりのない明るい口調で言い切るのである。


奥さんは考えこむように,でもやはり言わずにはいられないといった調子で-「主人が小児マヒを患ったことがあるということ,今初めて知ったんですよ。 それでびっくりしてしまって-。 主人は自分の足のことを,『小さいときころんで怪我をして,こうなったんだ』と言っていましたから,それ以上聞いてみなかったんです」という。


富美子さんは坂野さんが自分の障害を克服したことを示しながら,同時にそのためのたゆみない努力があったことも語っている。 何らかのハンディギャップを背負った子供が,子供の世界に溶け込むことの困難さについては多くの言葉は必要としない。 私は昔,家で鶏を飼っていた頃のことを思いだした。 数羽の中に1羽だけ成長の悪いのがいる。弱いとわかると他の鶏にことごとに突つかれる。 逃げていった先で又こずかれる。 首から肩にかけて羽毛がむしられ,裸の皮膚から血を流している。 餌にも仲々ありつけない。 子供の世界を見ていて,実力本位の非情さに驚くことがある。 それだけ,ごまかしのない1対1のぶつかり合いなのだが,相手の背負っているハンデに手加減するようなことはない。 だから坂野さんも強くならなければならなかった。それが水泳や柔道に結びついたのだろう。


デッサン:母子001

青春期は誰にとっても感情が不安定な時期だし,一方,自主性・独立性への欲求が強まり人間的成長の早い時期であるだけに,背負ったハンデが事更に大きくのしかかっただろうと思う。 どんなに鍛えても,失をわれた機能が100%回復しないとわかったとき,坂野さんの心に埋めることの出来をい空洞が生まれた。 埋められないとわかっていても,気持はそこに向って集中して行き,埋める努力を求める空洞である。 放置することは,生きることを放置することに等しい。 少・青年期にはこうした心理作用は誰の場合にも程度の差こそあれ経験のあることと思うけれども,心身に障害を持つ場合は比較にならない程,強い要求になるのが普通である。 こうした心の要求を満たすものとして,創作活動としての文学や絵画,そして宗教が坂野さんの前にたちあらわれたものと私は考える。


これを心理学上の補償行為というが,宮城音弥氏が『天才』の中で次のように言っている。

『創造の原動力は意志的なものである。多くの天才が知能などの能力でなく,仕事に対するエネルギーと仕事への情熱を持ち,執念および自信の所有者であることが指摘される。 この目的追求的努力も心の内面に感情的土台がないわけでなく,劣等コンプレックスがあるゆえに,それを克服しようとして理想に向って邁進することが多い』と………。

引用書:グループ8月機関紙No.14「坂野耿一特集」1977年6月発行
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