火だね

坂野 耿一
デッサン:子供001

子どもは最初母親に抱れ何の不安もなしに外界を見ています。次に這い這いしながら重力とたたかい、つまずきながら歩いたりして釣り合いをとることを体験します。 目に触れるものは魅力的でその目は神様のように恐れをしりません。 回転し、起立し、歩行し、脈うつ感情の表象が手によってなされ、手と手の延長である道具の世界の中で知性の芽がのびていきます。 描きたいものを命令と禁止、賞と罰、笑いと怒りが頭の上でお天気のように交錯していても描きたい時に描きたいように描いていたのが、望むと否とにかかわらずカリキュラムに従って描くことになってきます。 自分の画は友達とくらべられ序列がつけられます。 他の課目ではありえないこと、1枚の画によいという先生とよくないという先生にぶつかります。


デッサン:子供002

図画は学習中心の生活のタイプが続きやすいなかにあって、自分自身の行為によってしか形作ることのできない固有の創造的経験をすることによって…される、 …してほしいという情感に陥りがちな心身を開くことと関連した課目であると思います。 自からの言語を発達させていくことを中心とした課目であると思います。 基礎知識の発達と相まって他からの影響をうけます。 依存することと、自立することとの交叉を体験する時期において、自分の内部に芽ばえる未知の能力を自からの意志行為によって試し、苦労し、驚き、喜ぶ素質の 普遍的な核、弁証法的内面が萎縮しないように子どもを理解し、助力し、指導することが教育であると思います。


萎縮をもたらすような教育、単なる科学と技術と計算と概念の世界をみせるのみに終るような、図画でいえば美的効果の単なる操作、知性化に終るような、 評価主義を中心とした教育が与えられるならば、子どもを一面性のなかに放置することになります。 人間性の疎外をもたらすことにつをがっていきます。 我々の社会は育成された高度の分業組織の方向を探りつつあり、ごく早いうちから専門化されます。 専門家仲間だけでなく、他の分野の人々と結びついている全体的人間としての感覚の萎縮をもたらすことにつをがっていきます。


組織は人間性を疎外する側面を今のところもっていますが、組織を動かしている人が因襲(学校)のなかでねじまげられた普遍的な核が 再認識されないままの状態が多いということにその要因があるのではなかろうか。

デッサン:子供003

(1974年、グループ8月機関紙No.13所載の「火だね」第3節から)


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