坂野さんを悼みつつ

はらた はじむ  (自由美術協会)

坂野さんとはじめて会ったのは、1936年(昭和11年)ころ、名古屋市中区の稲垣善之さんが寄寓(?)していた家ではなかったか。 絵をかく友としてひきあわされたことはたしかだが、そこで坂野さんの絵を見た記憶はない。 むしろ稲垣さんの絵を前から知っており、情熱的な色彩と後にその家の娘さんとかけ落ちするというダイナミックな性格(教育者としては校長までになった稲垣さんだが、 私はそのすぐれた資質を未だに画家として結実されないことが残念だ)とは対照的に、坂野さんは、しずかな落ちついた青年として心に残っている。 寡黙で人前にはあまり出ず、絵こそ己れの正念場という中に、話しだせばことばに衣きせないという生きかたは、かれの一生を貫いたものだろう。


デッサン:こども008

そして戦後は、やはり稲垣さんの家で坂野さんを紹介してくれた山田光春さんがその一員である自由美術家協会の仲間としてである。 その中部自由美術の中で、よりリアルな研究表現を目ざして、一層深い結びつきを持とうと呼びかけた坂野さんに、真っ先に応じたのは私である。 これは純粋な追求心によって集まったもので、いわゆる党中党を作ろうなどというものでは決してなかった。 しかし当時のまわりの状況に自分の意図がゆがんで受けとられていると見て、かれはやがてみずからやめた。

いろいろな表現の「自由」の中で、その「自由」を守り育てる人間関係の複雑な心づかいを厭うてか、または一層自身に密着した境地を求めてか、坂野さんは団体「自由美術」を離れた。 のちに脱退者を少なからず出した自由美術の、残った私たちの中へ数回出品したことはあるが、それも離れた。会派を超えた結合を持とうという日本美術会(私もその一員である)へも、 その初期には参加しているが、会の拡大発展にもかかわらず、死に至るまで復帰しなかった。

60年安保の直後、かれは非常を情熱をもって、この市での、会派を超えた民主的美術家の創作をもっての結集に参画した。 それがグループ8月(その名は私の発案だ)であり、あいち平和美術展(8・15記念展ということから出発した)であり、そのはじめはかれと私との二人展から 高木紀賀さんや富田弘一さんとの4人展へ、そしてさらにひろがったリアリズム展である。 かれの現実探求の精神は実生活の上でも、民衆の暮らしに立った正しい政治を求めて日本共産党へ入党した。


私は、坂野さんが作品としてもっとも成功した一連の優作を生みだした時期は伊勢湾台風前後、大高町に居住していたころの、白黒を主体とした、アレゴリー風の、どこかアイロニカルなかげを宿したもののころと思う。 だがその傑作群にもかかわらず、それらは近代絵画の軌跡内として、ゴヤ的とも感じられる作風をふみ破っていったかれのなみなみならぬ追求・努力・勇気が、前述の運動を生み、同じ志向を持つ私たちへ大きな鼓舞を与えたのである。

「灰色の風景」(それらは風景とはいいながらかならずそこに息づく庶民の姿を点景的でなく描きだしている)の連作、 たばこの吸いがら、さびた包丁、みずから自家と往来の境の道ぎわに植えて育てた草花など、かれの作品はますます小さく、ミニチュアの世界に「もの」を究めるリアリティの表出につとめていった。 幼く弱々しげだが限りない未来への可能性をつつみ持っている子どもたちも、かれの作品を領し、実際にも児童美術教育にも魂を燃やし、転々として移り住んだ土地々々でもかならず手を取って教えている。

死に近いころの作品「団地にあそぶ子ども」(題は違っているかもしれかない) のビルの谷間、非常階段の踊り場に、高い空を背に縄飛びをする女児の姿は、美しい詩情をたたえてあたたかく描かれている。 そしてそれらには、ますます孤独に徹する自己を信じ、眼に見るもの以外は描こうとしなかった一画家のたたかいのあとがかがやいている。


デッサン:群れるひつじ

まことに坂野さんは、かれを知り比類ない献身を尽くした奥さんを後楯に、自己をまもりその自己を力のかぎり伸ばそうとした人であった

近代絵画の道を、現代から未来へ、しかもそれをこの地において新しいリアリズム芸術へ、探ね究めようとする私たちにとって、年1回、名古屋駅前ホルベイン画廊で正月に開かれる坂野耿一展は、 絶対に見のがせぬものであった。

新聞や雑誌の粗い写実複写にはまったく向かぬと言われたほどの暗い調子が、ようやく明るくかがやきはじめている中でそのリアリティを深めながらどう変貌しているか。 あくまで観念に流れず生活に密着して表現しようという坂野さんが、身辺の日常的写実描写でなく、よりひろい人間的テーマにどうとりくんでいるか。 その身辺を独特の無類の質感表現で、さらにどんなに高めているか。新しい俳句とも思える詩情、日本の季節感をどんなに楽しませてくれるか。………


私たちは、今、坂野さんの亡いあと、その個展の時期に「耿の会」という名の展覧会を持とうととりきめた。 坂野さんが求め、私たちとともにすすもうとしている新しい絵画の道を、坂野さんが描いたと同じ小品群を持ちよってひらいていこうというのだ。 それは葬儀に参列した一部の人たちの発案・設定によるものだが、私たちはもっとひろく、もっと多くのご参加をいただき、坂野さんの遺志と業績に学び発展させたいと思っている。 どうか、ひとりでも多くのご賛同をお願いします。

引用書:「追悼・坂野耿一」1976年8月発行(グループ8月)
このページの先頭に戻るto top