静かに燃えていた画家

坂野耿一氏を偲ぶ

藤原 梵

坂野耿一氏の作品に小さな燭台を措いた小品があるが,モチーフとなったこの燭台は私の寺で古くから使用されているものである。

燃焼の果てに流れて凝固した蝋が堆み重なった燭台を描きたいからと,1973年頃であったろうか,氏の求めに応じて私は寺にある二つの燭台を渡したのだった。 江戸時代のものと思われる柄付きの大きな燭台は描かず,小さく素朴な方を描いた小品を私は観ている。

二つの燭台は坂野氏の手元に1年余り置かれていたはずだが作品になったのはこの1点だけだろうか。 実物を視たうえで描こうとしたのではなく,氏の頭の中に描かれた想念が先にあったのだろう。 今にして思うと,静かに燃える焔と次々に流れて凝固する蝋は坂野氏の人生の一端を見る思いがする。 既成画壇的なものには眼もくれず市民生活の中でひっそりとひたむきに制作を続けていた氏には蝋燭の焔にも似た静かな情熱があり凝縮した多くの作品が残されたのである。


デッサン:燭台01

私が坂野耿一氏を知ったのは愛知の赤旗まつりが鶴舞公園のグランドで開催された頃だった。 はらたはじむ氏からグループ8月への入会を勧誘され,当時岐阜の仲間を知らなかった私は地理的にも近い名古屋のグループへ加わった。 鶴舞の野外展の作品の前で肩を組み合ったグループ8月の仲間達の写真が私の手元にあるが,元気旺盛な坂野氏の姿が見られる。 もう何年前だったか記憶が定かでない。


展覧会の折に顔を会わす位で日常の深い交際はなかったけれど私が岐阜の井岡会へ移ってからも展覧会の度に来岐して夜中語り明かした事などあったし, 岐阜市の自由書房画廊で木沢和氏と私たちで三人展を開催したこともある。 断片的な触れあいではあったが,いつもお互いに毎日会っている様な調子で画論や運動についてよく話し込んだものだった。

いつだったか愛知県美術館の自由美術展の会場で会った後,伏見あたりの飲み屋のノレンをくぐった事があった。湯豆腐をつつき乍らかなり酩酊し政治と芸術の問題について話しこんだ。 団地に住む様になって住民運動に熱中していた頃だろうか具体例をあげ乍ら民主的な美術運動をとりまく諸条件の不備を歎いたりしたものだった。

愛知県美術館で開催を続けたリアリズム展では5年程一緒だったと思う。 坂野氏から核心をついた批評を受けるのはそんな折で展覧会終了後きまって訪れる中華料理店まで話しは続くのであった。


1974年1月中津川市で開催した渋谷草三郎,藤原梵,上野たかし三人展の会場へ坂野氏が訪れた日は私ひとりだった。 夕方,画室へ案内して石油ストーブを囲み冷酒を飲み乍ら話したのだが何を話したか今では憶えていない。 生憎,寺の用事があって終電車で市外の寺へ帰らねばならない私と同行しようか否か迷っていた様だが寒さも厳しかったし又の機会にと言って名古屋へ帰って行った。

私の父と仏教について話したいと言っていたのに今から思うと無理にでも同行すればよかったと思われてならをい。 坂野氏の訃報を知った時この事と併せて「一期一会」についてつくづく考えさせられた私であった。


死の前後の情況について詳細は知らないが,突然襲ってきた死の現実は御家族の悲歎はもとより私たち仲間にとっても傷手である。

仲間の死に接しても未だ自分は大丈夫だと誰れでも思うだろうが,いずれ我が身にも確実に訪れる死の現実のあることを思うと画家として確実な仕事を絶え間なく続けることの貴重さを感じさせられるばかりである。


今は唯,故人の冥福と遺作展の成功を切に祈るばかりである。 (1977.5.10)


引用書:グループ8月機関紙No.14「坂野耿一特集」1977年6月発行
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