没後はじめて知ったこと
はらた はじむ (自由美術協会)
坂野さんとは永いつきあいだった。
だからと言って,もちろん,総べてを知っているわけではない。
没後はじめて知ったことのひとつは,かれが幼時,小児麻痺に冒されたという事実である。
適切な療法もとぼしいそのころ,祖母の特別なはげましのもとに,坂野さんは,不自由な右足をみずから鍛えあげた。
奥さんの話によれば,うわべはそんな気振りも見せなかった。水泳も常人に劣らず早かったし,柔道もなかなかだった。
その足で戦後の早い時期,大高の山で開拓農業のはげしい労働に服したのである。
われわれにしても,かれが少々足をひいて歩くぐらいにしか考えなかった。
第一,かれと話し合う熱い芸術論に足のことがはいる余裕はなかった。
だが,その回復鍛錬は大変なことだったろう。
耐ゆまず,怠らず,歯を食いしばっての自己訓練の他に,恐らく,他人からの侮蔑,自己卑下とのたたかいが,人に知られぬところで少年の頬に涙流させただろう。
かれの芸術を一貫するしぶとさ,底ぶかいねばりの根元はここでさらに強められたのだろう。
それは逆に,かれの絵画探究の一生に,病弱のかげもない子どもたちの明るさの表現となり,描画の時間を割(さ)いて子どもたちを集め,ともに遊びともに描き,みちびこうとした生きざまにも通じたのではないか。
もうひとつ。宗教-主として仏教-にかれが人知れぬ蘊蓄(うんちく)を持っていたと知らされたこともおどろきである。
生前かれとそれについて話し合ったことはなかった。
われわれは暗黙のうちにお互を無神論者と前提していた。
いや迂闊(うかつ)にも私が勝手にそうきめていたのかもしれない。
だからかれがその類ない写実の筆で,仏前の燭台を描いたときも,単にそこに置かれた民族的な器具と造形との関わりについて批判鑑賞し,それを描いた坂野さんの「こころ」については思いも及ばなかった。
その燭台を描くにも,諸所をたずね求めた。
たとえば,画友で宗教者である中津川の藤原梵さんにそれを借りに行ったときにも,吟味はきびしく,もっとも古く臘(ろう)垂りて由緒深いものを定めたという。
そんな話も芸道の名匠の凝りということにしか考えなかった。
そう言えば,かれの初期の「母子像」など,中期の「路傍の地像」,後期の「燭台」……今にして思えば宗教の因縁を思わせる作品は数々ある。
それは或るいは,かれの成長期-小児麻卑をたたかい越えていく時期に,当時日本人民を解放へみちぴいていく力が弾圧されていたときに,かれが思想のより所を求めたずねたのが,縁かもしれない。
われわれの尊い遺産である東洋画の世界。日本美術と禅のかかわり。庶民説法の絵巻物。かれの絵にその表われを見得る墨絵の筆法。……語り合うことは山ほどあったのに,私はその機を逸した。
今度の展覧会は,この面からでも,坂野耿一研究を深めるよい機会である。
灰色を主調とした,複製や写真には到底とらえ得ぬ微妙な陰影の表現の真底を,かれの瞑想のさらに奥深くたずねねばならない。
引用書:グループ8月機関紙No.14「坂野耿一特集」1977年6月発行
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