父を想う
坂野 心一朗
絵の題材を探しに父はよく裏山へスケッチに出かけた。
「シン,行くか」ひと声かけてサッサと出かけていってしまう父のあとを,愚図の僕はあわてて支度をして追い駆けていったものだった。
「あそこの黄色い花,覚えてるか,シン」「見たことあるけど,忘れちゃった」こうあっさり返事する僕に,父は笑いながら「覚える気がないからだぞ」と言って花の近くに歩みより,丁寧に教えてくれた。
道端のどんを小さを草花にも,立派な名前と生命のあることを,父との散歩の中から,知らず知らずのうちに感じとっていた。
◇ ◇ ◇
花や雑草に対していつも変わらぬやさしいまなざしを注ぎ続ける父に,僕は限りない安らぎを感じていた。
ところがそのまなざしは,時として恐しいほど鋭利に光り,僕を身振いさせた。
それは政治のしくみを批判するときであり,思想を語るときであった。
父の口調は時間とともに厳しさを増し,いてもたってもいられなくなると,うまい口実を見つけてその場を逃げだしたり,話題をそらせたりするのに苦労したものだった。
そんなときの父は,僕に語りかけるというより,他の誰かに,もっと大きを何ものかに向かって激しく絶叫しているかのように見えた。
◇ ◇ ◇
父の絵を見ていると,父の心そのものが見える。
目が心の窓であるとすれば,父のあの二つのまなざしの接点でゆれ動く微妙な心の葛藤が創作の原点だったのではないかと思う。
◇ ◇ ◇
父のそばにいて見よう見まねで覚えた絵も,今ではほとんど手がけることもなくなってしまった。
絵の道を行こうとするならば父に追いつき,父をのりこえなければならない。
一時期強烈に憧れた父への道も,サラリーマン稼業を長年続け,世間の波にもまれているうちに,すっかりその活力を失ってしまった。
このことは僕自身の心の退廃を意味しているのだけれども,父の死を契機に父の存在の大きさを改めて知り,到底のりこえられそうにない高い壁の前に茫然と立ちすくんでいるというのが,今の僕の姿といえそうだ。
◇ ◇ ◇
現在のサラリーマンの道は当分,否一生続くかも知れない。
しかし父の歩んだ偉大な足跡をこのまま風化させてしまうのは絶えられない。
父の残していった莫大を作品群を前にして,いつ終わるとも知れない作業にとりかかっている。
コツコツと-。 (昭和52年5月3日夕方)
引用書:グループ8月機関紙No.14「坂野耿一特集」1977年6月発行
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